7月25日(土)に開催された山形霞城郷土史研究会の研修会に参加してきました。
山形霞城郷土史研究会は、郷土の歴史研究や文化財の継承活動に取り組んでいる団体で、さまざまなテーマを取り上げて研修会を開催しています。
今回は、霞城セントラル1階の山形市観光案内センター会議室を会場に、山形市文化創造都市課課長補佐の齋藤仁氏を講師に迎え、「元和9・10年鳥居氏検地と最上氏家臣」をテーマにお話を伺いました。
最上氏が改易された後に山形藩主となった鳥居氏によって、元和9年から10年にかけて行われた検地の記録には、最上氏の家臣の名前が数多く記されています。今回の研修会では、そこから最上家の家臣のあり方や、当時の中級・下級家臣の姿を読み解いていきました。
検地帳には、田畑の寸法や等級、面積、人物名などが記されています。人物名の項目には、土地の権利者である「分付主」の名前と、その土地を耕作する「名請人」と呼ばれる人物の名前、さらに名請人の居住地が記載されています。今回は、宮町、江俣村、内表村、陣場村、鮨洗村、志戸田村など、分付主が多数記載されている検地帳に焦点を当ててお話を伺いました。これらの地域は、かつての馬見ヶ崎川流域にあたり、現在でも山形市の中心をなす地域です。この地域の検地帳に記載された分付主の内訳を見ると、寺社が14、苗字を持つ家臣が380人、苗字を持たない足軽などが181人となっています。
まず、苗字を持つ家臣の例として挙げられたのが、瀧沢兵庫という人物です。慶長7年(1602年)、最上義光が由利郡を領した後に最上氏に臣従した人物で、その名がこの検地帳にも記載されています。
瀧沢兵庫をはじめとした、当時最上氏に仕えたいわゆる「城持ち」と呼ばれる家臣には、妻子を人質として山形城下の屋敷に住まわせることを求められた者もいました。その屋敷の維持・運営にかかる費用は「宿分」と呼ばれ、馬見ヶ崎川流域の所領から賄われていたということです。現在も残されている当時の書状からも、こうした状況を読み解くことができました。
次に、取次・奉行クラスの家臣についてです。これらは城を持たない中級家臣で、こうした人々にも、最上宗家と家臣や豪商との取次を担ったことへの役料や、最上家の江戸屋敷の普請費用などをまかなうため、この地域の土地が所領としてあてがわれていたと考えられるということです。
検地帳には、「中間」「小物」「鑓衆」「鉄砲衆」「長柄衆」「大工」などと記載された人々や、苗字を持たない人々も見られ、いわゆる足軽や人足と呼ばれた人々のあり方も読み取ることができます。村落の有力な百姓は、馬見ヶ崎川流域に沿って自らの耕作地を広げていきました。そして、最上氏直属の軍勢を支えていた足軽などは、こうした有力な百姓から取り立てられていたと考えられます。このことから、馬見ヶ崎川流域は、最上氏が山形における支配を確立するうえで、非常に重要な役割を担っていたことが検地帳からもうかがえるとのことでした。
また、検地帳に記載された田畑の面積から割り出す一反あたりの年貢石高の算出方法などについてもお話を伺い、当時の状況をより立体的に理解することができました。
検地帳という一見すると無味乾燥な古文書から、当時の家臣団の構成や百姓との関係、さらには最上氏の支配のあり方まで見えてくる講演に、会場の参加者は熱心に耳を傾けていました。約1時間の講演では語り尽くせないほど、濃密で興味深い内容でした。
山形霞城郷土史研究会では、定期的にこのような研修会を開催しています。8月はお休みですが、9月にも開催を予定しているとのことです。一般の方も聴講できますので、興味のある方はぜひ参加してみてはいかがでしょうか。今まで知らなかった郷土の姿が見えてくるかもしれませんよ。
(文責:川部)
【お問合せ先】
山形霞城郷土史研究会 会長 鈴木幸代
023-607-3346










